フジイ模試で満点を取った話

今日は、フジイ模試で満点を取る話をします。

 

まず、奈良県の中学3年生のほとんどは、公立高校を受験します。

そして、その公立高校への入試判定として、最も適しているのはフジイ模試です。

ちなみにおせっかいなアドバイスですが、公立高校を志望しているのに、通っている塾で五木模試だけを受験している場合は、いい加減な学習塾である可能性が高いので、通塾を見直しましょう(五木模試は大変良い模試なのですが、奈良県公立高校の問題とは出題傾向がかなり異なるため、公立の入試判定に適していないという意味です)。

 

さて、そのフジイ模試は1年に6回あるわけですが、理塾では満点を取る生徒が出ています。

ちなみに、同じ生徒ばかりが満点を取っているのではなく、複数の生徒が、英語や数学や理科など色々な教科で満点を取っています(国語と社会で満点がまだ無いのは、理塾らしさということでお許しを)。

 

定期テストで満点を取らせるのは、極端な話どこの学習塾でもできるものですが、中学全範囲が出題され時には難問も混じるフジイ模試で満点を取らせるのは、かなりしんどいです。

理塾は開校3年目になりますが、ようやくそのレベルまで到達することができましたので、ちょっと嬉しい次第で、生徒と一緒に喜んでいます。

 

さて本題です。

模試(入試)で「100点満点を取る生徒」と「95点を取る生徒」の違いって、なんだと思いますか?

95点を取っている生徒に、どういう指導をすれば、100点満点を取らせることができると思いますか?

 

多くの学習塾では、「95点を取るくらい高学力層なので、この難しい問題集を解きましょう」と難問を解かせることでしょう。

ただ、そうではないんですよね。

塾長の愛読書のひとつに「敗者のゲーム(チャールズエリス著)」というものがあり、そこに書かれている内容(本来は投資関連の書籍)ですが、一部の超一流の天才を除いて、他の多くの人は「相手が強いから負けるのではなく、自分がミスをするから負ける」のです。

ですから、勝ちに行くのではなく、負けぬようにする戦いをすべきです。

これを受験勉強に当てはめると、奈良高校や畝傍高校でトップ合格させる場合は、基礎を徹底すべきなのです。

 

簡単に言うと、理塾の生徒は「すごく難しい難問が解ける」というのではなく、「どんな時でもミスをしない」というタイプに育ちます。

簡単なことのように見えて、思春期で難しい年齢の生徒達を、こういう風にもっていくのは、なかなか大変です。

でも、将来がすごく楽しみなので、塾長なりに一生懸命指導しています。

だって、社会に出た時がすごいですよ。

「結構難しい仕事でもこなすうえ、とにかく何よりミスをしない」という人材に育ちます。きっと、どこでも通用します。

 

こういう指導方針があるので、理塾では、あまり難問は解かせていません。

教科書レベルの問題ばかり、解かせています。

でもね、教科書ってすごいんですよ。

だって、教科書に載っていないことって、受験にはそうそう出題されません。

ですから、教科書レベルの完成こそ、塾長は大事だと思っています。特に高校受験の年齢くらいなら、余計にそうです。

 

さて今日は、フジイ模試の数学で満点を取ってくれた生徒が、奈良高専の推薦入試を受験しています。

数学で満点を取るほどの生徒なので、まさに理系に向いている彼ですが、きっとトップレベルで合格してくれるでしょう。

合格発表前から楽しみな塾長です。

では。

やればできる・・は勘違いの話

こんにちは、理塾です。

今日は、「やればできる・・」「覚えたらできる・・」などの考え方は、よほど考えて使わないと、基本的に勘違いであって危険ですよ、というお話をします。

 

皆さんは、こういう発言を聞いたことはありませんか?

「この子はやったらできる子なんですが・・」とか「社会は覚えるだけの科目だから覚えたらできる・・」とか。

 

たしかにその通りなんですよ。

基本的に、やってもできない子はいませんし、社会の基本となる部分はまず暗記です。

 

ただ、その事実と「できる」という達成の部分をくっつけて考えるのは、大変危険です。

なぜなら、ほとんどの場合において、「理屈では可能なことが、実際には全くできない」からです。

ここを勘違いして、くっつけてしまっている人が多い。

そして、そういう人は、勉強面で空回りしている気がします。

 

やったらできる子が、現状できていないのは、していないからです。

もっと詳しく言えば、「していないのが日常」だからです。

そして、そういう子にとっては、「やったら・・」という話をするのは非日常です。

非日常を前提にして話をしても、まず、できるわけがない。

当たり前のことなのに、皆さんここに気づいていない。

 

もっとわかりやすく言えば、世の中に大勢いらっしゃる生活習慣病のメタボの方(塾長含む)は、全員「頑張ったら痩せる」ってなりますよね。

頑張ってダイエットしたら、誰だって痩せます。毎日走ったら痩せる。あまり食べなければ痩せる。やればできる。

当たり前の話のはず。

でも・・・現実は・・・そう甘くありませんよね?

40歳を超えて、徐々に肥えていく(貫禄がついていく)人は多いですが、「一念発起して痩せた」という人は、周囲にそう何人もいないはず。

そのくらい、「やること」そして「続けること」は難しいものなのです。

その難しいことを、簡単に「やったら・・」という前提に掲げるのは、そもそもおかしいというか、夢物語に近いというか、軽はずみな発想なんです。ですから、そんなことを前提に話を進めるのは、大変危険なんです。

 

それがわかってるから、お医者さんは「頑張ったら痩せますよ」で簡単に片付けないですよね。

「毎日運動頑張れば、健康的に痩せますよ。頑張りましょうね。以上。」というアドバイスしかしないお医者さんがいたら、どう思います?

頑張ったらできるのは違いないにしても、どこか投げやりな印象を抱きませんか?

 

そうではなく、「ダイエットってしんどいですよ、でも、やる必要があります。なぜなら、この血中コレステロール値を見てください。しかも血圧が大変なことになってます。このままだと・・・」という話をお医者さんはしますよね。

そういう風に言われたら、「なるほど、やらなきゃな」と思って、しっかり食事や生活リズムなどの環境面から見直していくでしょう?

 

勉強の話でも全く同じで、「努力ってしんどいよ、でも、やる必要があるんだ。今のままだと、志望する学校に合格できる見込みはない。国語は今のままでもいいけど、英語と数学が大変なことになっている。だからそれを挽回するために必要な勉強法はね・・」と、塾長は生徒に話すようにしています。

その方がわかりやすく、何よりも安定して続ける努力家になるからです。

「やったらできる」なんて簡単に甘い事を言って、ちょっとやる気にさせてみても、そう長続きはしません。

現実を一緒に考えて、「どうやって改善していくか」を共有して、一緒に頑張っていく環境を整えてこそ、続くんです。

 

皆さん、学習面の環境整備を頑張りましょう。

では。

学歴についての話

こんにちは、理塾です。

昨日、理塾の中学受験生が、「函館ラサール」に合格しました。

遠方ではありますが、ラサール系列の名門校ですから、理塾で学んだことをこれからも実践していって欲しいと思います。

 

さて、本日は「学歴」の話をします。

結論から言いますが、「日本は学歴社会」です。

多くの子供達はまだ経験がないでしょうが、「どの学校で学んだか」は、経歴として履歴書に克明に明示されます。

「勉強してなかったー!」と反省しても、学歴上は後戻りなんて、一切できない。

脅すつもりはありませんが、頑張っただけ将来が有利になる世界、そして遊んだだけ将来が不利になる世界、それが日本の学歴社会なんです。

 

すごく極端な言い方ですが、卒業した学歴が「京大阪大神大」か「産近甲龍」か「それ以下」かによって、「賢い」か「普通」か「お馬鹿さん」かが、誰も言葉にはしないものの、周囲は何かしら感じて判断しているものです。

そして、より良い学歴を持つ者は、そうでない者よりも、(特に男性は)一生を通じて高い評価を得ます。

極端な言い方ですが、中高生の時代に遊んでばかりで勉強しなかった人は、一生を通じて(特に男性は)ずっと恥をかきます。

当たり前ですよね。

努力した者が高い評価を得て、遊んだ者が低い評価を得るのは、社会として公正で大事なことですから。

 

ただ、勘違いしてはいけないので、先に注意しておきますと、「学歴が通用するのは、相手が自分のことをよく知らない初対面レベルの時だけ」です。

もう一度言いますよ。

「日本は学歴社会ですが、学歴が通用するのは最初だけ」です。

 

例えば、あなたが天下の「京大卒」で、どこぞの会社に就職するとしましょう。

入社日などには、同じ部署の先輩達は「今度の新入社員は京大卒だって!」などと、多少なりとも噂をするものです。

入社1ヶ月くらいの時に立派に仕事をすれば「さすが京大卒やなぁ」と言われるでしょう。

 

ただ、入社半年もすれば、「学歴なんて一切関係ない」世界になります。

半年もすれば、その人のことを周囲もよくわかっており、大事なのは学歴ではなく、その会社でどれだけ業績を出しているか、だからです。

※学歴はあくまでも、相手に伝えやすく、第一印象として身分を保証する手段の一つであり、ずっと続くものではないんです。

 

これは結婚する時も同じです。

あなたが25歳の年頃の娘さんで、おうちに「結婚を考えている、お付き合いしている彼氏さん」をご招待したくて、親に相談するとしましょう。

すると、大抵の親は、娘にこう尋ねます。

「あなたがお付き合いしている男性は、どこの大学を出て、どこの会社で、どんな仕事をされている何歳の方なの?」と。

親というものは、学歴と職歴と年齢という、履歴書に書かれていることを、まず確認するものだからです。

 

そこで、「京大を出て、NTTで通信の研究をしている同じ年齢の人」とか言えば、「立派な方ねぇ」と第一関門は比較的穏便にクリアするでしょう。

親というものは、夫婦である自分たち自身の学歴か、我が子の学歴に相当しない結婚相手は、基本的に「あまり賢くない相手」と感じるものですから、勉強ができない人(遊んでばかりいた人)は、当然ですが理解を得られにくくなります。

ただ、これもご両親がその方について初対面レベルだからこその話。

実際にその人の人となりを把握した段階になると「京大を卒業した」というのは、一切関係なくなります。

それよりも、「性格が穏やかで、わが娘に合っている」「わが娘のことを本当に大事にしてくれている」などの方が重視されるものです。ただ、最初からこういう理解は成立しない。

※勉強ができない人は、最初はともかく次第に人間本位の評価に移るでしょうが、最初のステップ自体が突破できない事も多々あるので、ひとまず勉強はできるに越したことはありません(努力から逃げないに越したことはありません)。

 

このように、学歴というものは、初対面レベルの相手にしか効果はなく、またそういう相手にしかアピールしてはいけません。

会社に入って2年も3年も経つのに「俺は京大を出て・・」とか言っているようでは、「学歴は立派かも知れないが、他に語る業績のないプライドだけ高い人物」と自分で言っているようなものだからです。

 

ただ、初対面の相手には、自分がどういう人生を歩んできたか(要するに自分の身分)を証明するものとして、相当強烈に効きます。

初対面の相手が、自分に抱く印象がはっきり明暗分かれます。

親戚が集まる結婚式場にでも行くと、よくわかりますよ。

「彼は〇〇大を卒業してるよ」「彼は優秀なので海外勤務しているらしい」という学歴や職歴のオンパレードです。

いい悪いはともかくとして、人を第一印象で判断する段階では、学歴やそれに基づく職歴は、現状の日本では大変重宝されているものなのです。

 

名門校であれば、初対面の相手の印象として、最高の状態からスタートする。

底辺校であれば、初対面の相手の印象として、最悪の状態からスタートする。

ただ、あくまで最初のスタート時の話だけで、ずっとではない。スタート時の状態を、引きずってもいけない。

そういう意味で、(あまり他人に深く踏み込まず、初対面レベルを好む部分を含めて)日本はすごく学歴社会なのです。

 

塾長が言っている意味が、わかりますか?

学生諸君はこの部分を正しく理解して、自分の人生を自分が望む通りに歩んでいってください。

では。

塾長より新年のご挨拶です

新年明けましておめでとうございます。
朝から晩まで冬期講習中の理塾です。

 

今年の新年のご挨拶として、「勉強する理由」についてお話します。
さて皆さんは、なんのために勉強していますか?

少し勘のいい生徒なら「目標を叶えるため」と返答するでしょう。
それでよろしい。

では、皆さんは目標を叶えてどうなりたいでしょうか?
単に「目標が叶った~最高~!」と満足するだけでしょうか?

 

答えの前に、少し哲学のような話になりますが、我々は「毎日を生きています」よね。
ありがたいことに、今の日本は恵まれた環境にあるので、「今日は飢えて死ぬかと思ったけど、なんとか生き抜いて明日につながった」という人はほぼいなくなりました。
世界の中には、こういった国々もあるでしょうが、今の日本はそこまでではなくなった。

ですので、我々は毎日の飢餓状態を気にせず、もうちょっとレベルの高い生き方ができるわけです。
たとえば、「飢餓に怯えた状態」よりは「安定した暮らし」が、レベルの高い「毎日を生きる」という状態です。
これはわかりますよね?

 

では、すごくレベルの高い毎日を生きるという状態は何でしょう?
答えは色々あるでしょうが、塾長は「自分が興味のあることをした結果、周囲の人に感謝されて必要とされる状態で毎日を生きる」というのは、大変レベルが高く幸せな生き方だと思っています。

ですから、そのために勉強してほしい。
ただ、ひとつ忘れてはならないことがあります。
子供達は勘違いしやすいのですが、「学生の頃に必死に頑張って勉強したら、出世して偉くなって楽できる」というのは間違いです。

頑張って勉強すれば、当然、出世して偉くなるでしょう(すごく幼稚な物の言い方ですが・・)。
ただ、出世して偉くなっただけ、さらに頑張って努力する毎日が待っています。
極論すれば、決して楽になることなんてないんです(本当の意味では、楽ではないもののすごく楽しい毎日なのですが・・)。

なぜなら、人に感謝されて必要とされる立派な人なら、周囲が遊ばせておくはずがないのです。
能力と影響力がある人には、たくさん頑張ってもらって、もっと社会貢献してもらわないと、みんなが困るわけです。
だから、一生を通じて「楽になる」なんてことはない。

 

「昔は頑張ったけど、キリのいいところで楽をする」ことができるのは、言い換えれば、今は特に誰からも必要とされていない人です。
「必要とされていない」だけなのを、「今まで頑張ったから、これからは楽をしよう」と、うまく言い換えて誤魔化しているだけです。
そうなると、「今でも勉強が好きじゃないのに、ずっと頑張り続けるのは嫌だな」とか思う人もいるかも知れません。
適度なところで「もういいや」と言いたい人がいるのも、わからなくはありません。

でも、そう思うのは、きっと「しんどいことが楽しさに変わることを経験したことがないから」なんですよね。
努力が報われる瞬間というのは、大変甘美な世界で、本当に癖になります。すごく楽しい。
確かに「忙しさ」はあるけれど、それを上回る喜びがあれば、「楽しい」と思うことができるでしょうし、それはレベルの高い生き方だと思います。

ただ、努力した先にある喜びを知らなければ、しんどくなって途中で投げ出したくなったり、諦めたりしたくなる気持ちもわからなくはありません。
経験したことがないのだったら、全く理解できない話なのかも知れません。
だから、生きている世界も見えている世界も、毎日の生活の充実の度合いから全てに至るまで、人によってきっと全然違うのです。
理塾は、より高いレベルで日々暮らせる生徒を1人でも増やす学習塾になりたいです。
「自分が興味のあることをした結果、周囲の人に感謝されて必要とされる状態で毎日を生きる」というのは素晴らしいことですが、そういう人材を育てるのは最高に楽しいことだからです。

生徒諸君は今一度、勉強する理由について考え直してみましょう。

では本年もよろしくお願いします。